まえがき

 

von Klitzingが整数量子Hall効果を発見したのは198025日である.この結果は5月に投稿され,811日号のPhysical Review Lettersに掲載された.私がこの論文を見たのは198099日から箱根で開かれた強磁場と半導体に関する王子セミナーの会場である.このときvon Klitzingは夜特別に開かれたセッションでこの現象の報告を行い,参加者に論文の別刷りが配布されたのであった.この時の参加者は固体物理の測定で微細構造定数が精密に測定できるというこの現象に大きな驚きを感じたが,この発見がその後の分数量子Hall効果の発見につながり,物性物理学にまったく新しい概念が持ち込まれる契機になるとは思いもしなかった.本書はこの大発見に始まる量子ホール効果研究の成果を概観するものである.

 

本書のテーマである量子Hall効果は整数量子Hall効果と分数量子Hall効果

に大別される.von Klitzingが発見したのは前者である.この現象は日本で発見されてもおかしくないものであった.実際1975年の東京大学の安藤,松本,植村による理論計算はHall抵抗の量子化を示唆するものであったし,学習院大学の川路と若林は1976年にはHall抵抗の測定を行っていた.このような経緯もあって,整数量子Hall効果は日本でも盛んに研究されてきたが,物理学の進展という観点からすると,整数量子Hall効果研究がもたらしたものはこの現象の双子の弟である分数量子Hall効果の研究には及ばない.

 

分数量子Hall効果の研究では,少数電子の系に対するハミルトニアンの厳密対角化法が無限個の電子を対象とする物性理論において威力を発揮することが確立し,強相関の多体系の波動関数が書き下されるという画期的なことがなされたのに引き続き,理論家の創造物でしかなかった分数統計の粒子エニオン,分数電荷の準粒子,スカーミオンと呼ばれる粒子,朝永Luttinger液体,などが実際に実現し,観測されるということが明らかになり,理論の手法としても仮想磁束による粒子統計の変換などが開発された.これらは物性理論の研究に大きな進歩をもたらしたもので,1980年以降の様々な物性研究の中で一番の成果を挙げたものといえる.

 

しかし,このような様々な研究成果のほとんどはごく最近までアメリカを中心にしてもたらされてきたものであった.この理由としては実験の側面では分数量子Hall効果の最先端の研究対象となる良質の試料の作成がBell研究所,Princeton大学など限られたグループの専売特許であったことは否定できない.また,理論の研究では,日本は磁性の研究の層の厚さに比べて,半導体と磁場とを組み合わせた研究を行う理論家が少なかったことも挙げられよう.悪いことに1987年には高温超伝導体が発見されて,日本は高温超伝導一色に染まってしまった.しかし,日本での分数量子Hall効果研究が盛んにならなかったのは,この面白い現象を紹介し研究に巻き込む努力が足りなかったことも事実であろう.その観点からすると,本書はもっと早く,少なくとも10年前には出版されていてしかるべき本だったと思う.

 

というわけで,本書はこの量子Hall効果の魅力を伝え,より多くの人に研究に参加してもらうことを目指して書かれたものである.もちろん既に行われた研究でおいしいところはあらかた片づけられてしまっているかも知れない.だが,いつ何時おもしろいことが見つかるかもしれないのが物理の研究の常である.

 

さて,本書の元となったのは著者が大学院で行った講義のノートで,これに大幅に加筆したものである.理論の部分は基本的に量子力学を第2量子化辺りまで理解していればわかるように書いたつもりであるので,理論系,実験系を問わず,大学院学生ならば理解できるであろう.従って,専門家が読む場合には冗長であると感じるかもしれない.ただ例外は第5章のChern-Simons GL理論のところで,読者の中にはここで用いられている経路積分になじみのない方もおられると思われる.これについては必要であれば巻末の参考文献を参考にしていただきたい.それ以外については本書のみで理解できるように書いたつもりである.また,本書はReviewとしてではなく,教科書として書かれた.このため,

引用文献は必要最小限に止めている.本文中に脚注として論文が引用してあるが,これは出典を明らかにするのが目的であり,これらをいちいち読まなくとも先に進めるはずである.また,量子Hall効果についての研究のすべてを網羅することは著者の力量,本書のページ数などから考えて不可能であるから,量子Hall効果の全体像を正しく捉えるのに必要であると思われるものに限って記述した.その一方で,量子Hall効果を題材にした物性物理学の教科書としての側面も持たせるために,ある程度関連した事項の記述も行った.

 

本書では磁場は常に$z$軸の正の方向にかけられていて,大きさは$B$である.電子の電荷は$e$と表記されこれは常に負である.単位系はSIである.Planck定数$\hbar$は省略されることが多いが,本書では極力明示することとした.

 

本書の執筆が決まってから著者には様々な予想外の仕事が舞い込んだ.1996年度は駒場寮を廃寮にした直後に学生委員会委員長の大役を仰せつかり,1997年度は「第122次元電子系の性質に関する国際会議」(EP2DS-12)の事務局長であったために執筆に十分な時間が取れなかった.本書執筆の機会を与えてくださった長岡洋介,吉川圭二両先生ならびにこの間辛抱強く叱咤激励していただいた岩波書店の片山宏海氏に感謝したい.

 

19985

 

吉岡 大二郎